映画『リバーズ・エッジ』感想――不安定な物語は魔法のトンネルの先へ届くか?

(途中までネタバレ無しです)
movie-riversedge.jp

 2月16日(金)の公開に先駆け、2月2日(金)にFilmarksの試写会で観ました。
 試写会来場者はFilmarksへのレビュー投稿が必須だったので、取り急ぎネタバレ無しで書いた感想がこちら。
リバーズ・エッジ - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ | Filmarks
 Filmarksのほうで書いた内容と被る部分もありますが、今回はもうちょっと踏み込んで(途中からネタバレ有りで)あらためて感想を書きます。

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

原作に寄り添った映像化

 まず、僕は鑑賞前日に岡崎京子の原作を再読して試写会に臨んだのですが――これはちょっと失敗だったかなと思ってます。
 というのも今作、かなり原作に寄せた作りになっているので、その内容を念頭に置いて観ると「確認作業」っぽくなっちゃうんですね。少なくとも僕はそうでした。
 ストーリーの流れも、細かい台詞も、キャラクター(見た目や性格等)も、細かいディテールも含めいろいろと忠実に映像化している。原作の再現度が高いのは良いのだけど、あまりにちゃんとなぞっている部分が多いだけに、1本の映画として冷静に鑑賞しきれなかった気がします。
 ――ただし、ある部分を除いて(詳しくは後述)。

スタンダードサイズの1993~1994年

 いろいろな部分で原作に沿っているんですが、中でも象徴的なのが、1993~1994年という時代設定です。
 1994年。岡崎京子の原作『リバーズ・エッジ』が執筆され、小沢健二の代表作『今夜はブギー・バック』や『LIFE』もリリースされ、主演の二階堂ふみが生まれた年。
 本作ではその時代設定も忠実に再現しています。
 作中で大写しされる車はわざわざ当時の車種を使っているようだし*1、通りかかる車をコントロールできないようなロケシーンでは車にピントを合わせなかったりカメラと車の間に障害物を挟んだりとアングルを工夫してました。僕はあまり詳しくないけど、ファッション等もきっと当時のもので固めているんでしょう。
 
 あと、画角が全編スタンダードサイズ(4:3)なのも印象的。
 スタンダードサイズと聞いてもピンと来ないかもしれませんが、要はアナログ放送のころのテレビ番組と同じ縦横の比率です。
 監督には閉塞感等を表現するねらいがあったようですが、時代感の表現にも一役買っていると思います。
 いまどきスタンダードサイズで観るものといえば、昔の映像ばかり(ドラマの再放送、ドキュメンタリーで挿入されるアーカイブ映像、古いMV等)ですよね。我々のなかに「スタンダードサイズ=昔の景色」って刷り込まれているのか、この画角だけでどことなく古めかしく感じられるのがちょっと面白いです。
 
 ――というように、時代設定に対する製作陣の並々ならぬこだわりを感じる本作。
 ただ、そもそも90年代にこだわる必要があったのかな? とも個人的には思いました。
 
 たしかに原作では当時を象徴するキーワード・アイテムがいろいろ出てきます。ですが、作品のストーリーやテーマ自体はわりと普遍的だし、現代(2018年)が舞台でも全然通用するのでは?
 公衆電話や固定電話のように、今の高校生が全然使わない小道具にしたって、それをスマートフォンに置き換えるのもそこまで難しくないはず。
 この時代設定にこだわったのは、原作へのリスペクトみたいなものが多分に含まれている気がします。
 
 でも、1994年と2018年、約四半世紀の隔たりがあっても、この物語に共感する人たちは常にいるでしょう。現に、主演の二階堂ふみ(1994年生まれ)は原作を読んで「自分が日常で感じているものや感情がそのまま作品の中にあった」と強いシンパシーを抱き、本作の映画化を実現するため尽力したわけで。思いきって現代を舞台にすれば、却って原作の普遍性を強く強調できたんじゃないかな、って思うのです。

(※ここからネタバレ)原作通り、だからこその弱点

不安定、またはライブ感

 『リバーズ・エッジ』の原作に限らず、岡崎京子作品の多くは「物語がどちらへ転がっていくかわからない不安定さ」を抱えているように思います。
 僕はマンガを単行本で一気読みすることが多いですが、単行本で読むと綺麗にまとまって見える作品が大多数を占めるなか、岡崎京子のマンガは妙に「不安定さ」が強い印象があるのです。
 本当に即興でストーリーを考えながら描いたからこそ「不安定さ」がにじみ出ているのか、それとも最初から全体の筋書きを考えた上であの「不安定さ」が演出されているのか。不勉強ながら岡崎京子が実際どのように描いていたか知りませんが、いずれにせよこの「不安定さ」、言い換えれば「ライブ感」みたいなものが作品の大きな魅力になっているのは間違いないでしょう*2
 けど、これは連載マンガだからこそ強みになっている部分で、違うメディア(こと約2時間の長編映画)だとそこが「隙」になってしまう気がします*3
 このあたり、原作未読でいきなり映画を観た人の感想が気になるところ。

空っぽの若草ハルナ

 映画版のストーリーにおける最大の「隙」が、主人公・若草ハルナだと思います。
 二階堂ふみが演じる若草ハルナは、(原作でも映画でも共通して)主要人物のなかでもっとも個性の無い、狂言回し的な受け身のキャラクターです。
 いじめられている山田を助ける正義感はあるが、山田や吉川こずえの誘いには基本的にすべて受け身で行動しているし、交際相手の観音崎に対しても(しばしば嫌がったりケンカしたりしつつも)わりと流されっぱなしです。
 原作ではハルナのモノローグが頻繁に入るので、受け身で行動しているシーンでも頭の中ではいろいろなことを考えているのがわかりますが、映画版ではモノローグがほとんど無いため、ただただ流されているように見えてしまう。これは二階堂ふみの演技の問題ではなく、演出的にそこを描く気があまり無いのかな? って印象です。
 
 あと、二階堂ふみの体当たりっぷりも触れておくべきでしょう。
 もともと、『リバーズ・エッジ』の映画化のため一番奔走したのが二階堂ふみだ――というのは、複数の関係者が述べているところ。クレジット上はあくまで主演キャストですが、事実上の企画者(またはプロデューサー)といえるかもしれません。
 だから、というわけじゃないでしょうが、文字通り一肌も二肌も脱いでます。原作にあったような性描写もしっかり演じてるので、(女性率の高い試写室では多少の気まずさがありつつも)まあ食い入るように見てしまいましたね……。たぶん同性の方が見ても「おおー」と思うのでは。……なんか言い訳がましいですね。すいません。

原作になかったシーン

 一方、映画オリジナルの要素がもっとも強い部分といえば、合間合間に挟まれる登場人物へのインタビューでしょう。
 原作では各キャラクターのモノローグで説明していたようなことを、映画では(普通はナレーションでやりそうなところですが)このインタビューのかたちで説明している。独白のナレーションをあえて排除したのは面白いと思います。ナレーションが入るのはオープニングと終盤(田島カンナ焼死後の状況説明)とラストシーンのギブスンの朗読くらいだった(と思う)ので、これらを際立たせたい狙いもあったのかも。
 取材記事によれば、撮影の合間に行定監督自らインタビュアーとなって質問をぶつけていったらしいです。

二階堂:(略)あのシーンの撮影はいつやるのかも知らされずに急に決まって、ある程度の台本はありましたが、他は何を聞かれるかわからない状態でした。(略)
吉沢:(略)撮る前に監督に言われたのが「山田とそれを演じている吉沢亮の中間のようなものが見たい」ということ。(略)
出典:【インタビュー】二階堂ふみ×吉沢亮 繊細で鈍感でエネルギッシュな青春という化け物を語る | cinemacafe.net

 そんな撮り方なので、アドリブの部分もけっこう多いようですが、言葉を選びながら回答している様子も含めて、これは作品のトーンにすごく合っている印象を受けました。
 
 ただ、このインタビュー、観客には「誰が何のためにやってるの?」と大きな謎が残ります。
 てっきり作中で説明されるかと思いきや、最後まで一切説明されないんですよね。最初は田島カンナの焼死事件を受けて警察かマスコミが関連人物に訊いてまわってる設定なのかな? と思ったけど、生前の田島カンナにもインタビューしてるからその可能性は無いし。
 どうにも不自然で違和感がつきまとってしまうので、このシーンについては賛否が分かれそうな気がします。僕自身、効果的だなと思う反面、なんだかなーという印象もあり。
 たぶん「そういう演出だから、特に深い理由はないんだ」ってことなんでしょうが……個人的には、こういう部分をきっちり作中で理由づけしてくれるほうが好きです。

1本の映画として突き抜けた瞬間

 原作に忠実に映像化されているがゆえに、僕は本作を1本の映画として冷静に観られなかった。と最初に書きました。
 ところが、あるシーンで決定的に「原作との比較」を突き抜けました。
 
 それは、田島カンナのインタビューシーン
 終盤、田島カンナの焼死体が落ちた直後に挿入される彼女のインタビューは、本作の白眉だと思います。
 山田一郎との交際について訊かれ、「渋谷のHMV」「元フリッパーズの」といったキーワードを交えつつ、嬉しそうに語る田島カンナ。

犬は吠えるがキャラバンは進む

犬は吠えるがキャラバンは進む

 しかし、ある質問を受けて、笑顔のまま無言で固まる。質問の意味がわからないのか、そんなことを考えたこともないのか、考えはあるけど答えたくないのか。笑顔のまま、でも困ったような迷ってるような気分を害したような、言葉で表現しきれない微妙な表情のままで数秒間の沈黙。
 このシーンは映像だからこそできる絶妙な表現だったと思う。
 田島カンナ役の森川葵さん、僕はこれまで出演作を観たことがなかったのですが、前々から演技の評価が高いらしいですね。たしかにすごい。
 
 このシーンを観て、僕の中では昨年12月に「POPEYE No.849」の付録「Olive」で小沢健二が書き下ろした「ドゥワッチャライク」マイナス17回の内容がオーバーラップしました。「邪悪、ヴォルデモート、あるいは田島カンナ」。なるほど! ここで、映画、ひいては原作がもっていたある要素を直感的につかみ取れた気がします。
 大げさかもしれないけど、このシーンだけで、『リバーズ・エッジ』を映画化した意味があったように思う。原作の多くをなぞりつつ、終盤でこのオリジナルのシーンが突きつけられる。原作を読んでいる人には不意打ちのように刺さるし、原作を読んでいなくても、妙に心に残るんじゃないかと思う。
 
 そこから、若草ハルナの引越し準備のシーンを挟んで、ハルナと山田が夜の橋を渡るラストへ向かってゆく。
 ちなみに、原作で山田がハルナへの餞別に渡すのはThe Monkees「HEAD」だけど、映画ではギブスン*4の詩集に替わっている。そのかわりなのかなんなのか、直前の引越し準備のシーンでハルナがThe MonkeesのTシャツを着てましたね。
ヘッド

ヘッド

 
 夜の橋を渡りつつ、2人の声で読みあげられるギブスンの詩。
 原作ではこの後に吉川こずえの姿が出ますが、映画は夜の橋のシーンのまま終わります。山田の「UFO呼んでみようよ」の言葉のあと、オルガンの音色が聞こえてくる。主題歌、小沢健二「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」。
アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)(完全生産限定盤)

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 昨年末に先行して公開された歌詞のフレーズからは想像つかないほど、軽やかな曲調、軽やかな歌声。主演2人による語り。また、軽やかでありながら、映画の印象自体を大きく左右するほど力強くもあると思います。
 行定勲監督のインタビューによれば、「(略)実は最初、仮でエンドクレジットに小沢さんの情感にあふれる名曲『天使たちのシーン』を入れていたのですが、彼が“僕のなかではもっと明るい曲が鳴っているから”と、新曲を書き下ろしてくれました。(略)」*5とのこと。試写会へ行った時点ではこの小沢健二の発言を知らなかったので、これを踏まえてもう一回あのラストシーンを観たいです。

*1:そこまで車に詳しいわけじゃないですが、パッと見で「あ、90年代っぽいデザインの車だな」と感じました

*2:人によっては欠点に見えるかもしれませんが

*3:岡崎作品の映画化だと蜷川実花監督『ヘルタースケルター』の先例がありますが、あちらは未見なのでどうなっているか不明

*4:映画では「ギブソン」と発音していた気がしますが、個人的には「ギブスン」表記のほうが馴染みがあるのでこちらを使用

*5:※出典:http://mi-mollet.com/articles/-/10993