続・「深い愛を抱けているか?」

※この文章は、あくまで「事実関係の整理」「憶測による非難を防ぐ」ため(それからいわゆる「お気持ち表明」のため)に書いたものです。特定の個人を誹謗中傷することや、また誰かを非難する際の援用とすること等は絶対にお止めください。

集英社オンラインの「手続き」の問題

 2023年10月11日(水)、集英社オンラインに掲載されたある記事が非公開となりました。
 
 既に読めなくなっている記事なので詳細は省きますが、9月30日(土)に東京大学駒場キャンパスの900番講堂で行われた、小沢健二さんによる講義――正式には、東京大学総合文化研究科・副産物ラボ(中井悠研究堂)主催の「影響学セミナー・第6セミナー≪イメージの影響学≫」――の内容を伝えるレポート記事(東大構内で撮影された写真も含む)、でした。
 これが記事公開後すぐ(ライターを務めたkobeniさんの「小沢健二さん本人の意向を汲んで」という説明とともに)非公開となったことでその理由に対し憶測が広がり、中には小沢さんを責めるコメントも見受けられました。
 
 しかしこの件で小沢さんを責めるのは筋違いです。
 この原因は、集英社オンライン編集部側の取材手続きの不足に尽きるでしょう。
 これからその事実関係を整理していきます。
 

なぜ「取材手続きの不足」と言い切れるのか?

 10月16日(月)に小沢さんが生出演したラジオ番組「MIDNIGHT GARAGE」(FM802)内での発言が何よりもの証拠です。
 
 小沢さんゲスト出演部分のradikoタイムフリーの聴取リンクはこちら。10月23日(月)いっぱいまで、聴取圏外の人でもradikoプレミアムで聴けます(月385円で初月は無料)。
https://radiko.jp/#!/ts/802/20231017002535
 以下、小沢さんの発言のうち事実関係の検証に関わる箇所を4点箇条書きしますが、詳しくは実際の音源をお聴きください(この他にもいろいろと興味深い話、面白い話をされています)。

【1】「(教科書を)読む人との間で起こること」「1対1の関係」を大事にしようと講義をした
【2】そのため、取材や撮影の申込みはあったが、全てお断りし、理解していただいた。東大の方からもお断りが行っていた
【3】大学の授業なので、勝手に来て取材や撮影ができるものでもない
【4】(講義は)アトラクションみたいなもので、乗ってみないとわからないところがある。まとめられないし、もしどこかで「まとめ」とかって言って出てても、それは多分信じないほうがいい

 小沢さん・東大ともに、メディア関係者に対してそもそも取材や撮影を一切許可していなかった
 であれば、そうした講義の取材記事が世に出たことの原因は「集英社オンラインが無許可のまま取材・撮影から掲載まで進めてしまった」以外にないのです。
 
 私の友人知人(主にメディアや音楽業界関連)にも、あの記事を見てまず「あ、取材許可を取れたメディアもあったんだ?」と誤解した、という人が複数いました。
 また、上の【2】にあるような「理解していただいた」メディア関係者の方からすれば、「ウチの取材は断わられたのに、集英社オンラインだけはアリなの?」という話になりますよね。
 もし集英社オンラインがあの記事を取り下げず頑なに掲載し続けていれば、いわば「やった者勝ち」状態で、同業者から大顰蹙を買ったことでしょう。
 

そもそも取材にあたり許可をとる必要はあるのか?

 (個人の趣味の範疇でなく)集英社オンラインのような商業メディアが扱うのであれば、こうしたイベントの取材・撮影時にアポイントを取るのは必要な基本の手続きです。
 たとえば、(観客による撮影が禁止されている)ライブやコンサートであってもメディアによる取材記事にライブ中の写真が使われているのは、メディアと主催者の間の手続きが正しくとられているからです。
 
 特に、今回の講義は東大の構内で東大の研究室の主催により行われている以上、先述の【3】で小沢さん自身が指摘されているように、東大に無許可で取材・撮影してはいけない(=大学の定めるルールにも従わなくてはならない)でしょう。
 東大では、取材・撮影についてこのようにルールを示しています(※太字強調は筆者によるもの)。

本学の取材・撮影をご希望の場合は、事前に申請いただき、許可を得ていただく必要がございます。
なお、取材・撮影は、 本学の教育・研究 に関するものとさせていただいております。ご希望の場合は、以下の要領でご連絡ください。

 今回集英社オンラインは【2】【3】の両方を守れていなかったからこそ、公開後間もなく記事を取り下げることになったのです。
(なお、より正確にいうと、今回の本講義および追講義については、開演前および終演後の会場内の撮影は許可されていたようです。ただそれはあくまで個人的な利用の範囲に限ったことでしょうから、商業メディアに載せるのであればやはり手続きが必要であったことに変わりありません)
 
 今回記事が非公開になったことに対し、「大手メディアを黙らせるほどの圧力をかけたのか」「集英社はこうも簡単に圧力に屈するのか」といった根拠のない憶測(とそれに依拠する小沢さんや集英社への批判)も見られました。
 しかし、このような経緯を踏まえれば、「圧力」とはほど遠いものだとわかります。
 

あらためて、「深い愛を抱けているか?」

 冒頭の注意書きでも触れましたが、この文章を書こうと思った大きな動機は2つあります。
 まずは、前段までに書いてきたような「事実関係の整理」
 そしてもうひとつは、「憶測による批判を防ぐ」ことです。
 
 上で触れたように、記事の非公開等*1をめぐり、さまざまな憶測と、それに基づく意見がみられました。
 そのなかには、感想や要望の域を超えた、批判や非難に類するものも少なからず含まれていたように思います。
 たとえば、「説明責任があるだろう」「身勝手だ」「発言の自由を制限するのか」とか。中には、ここで具体的に挙げるのもためらわれるような厳しい言い回しのものもありました。
 
 これらは「メディアに圧力をかけた」という事実に反する憶測から始まっているので、そこに依拠した批判や非難も誤っている——と言ってしまえばそれまでなのですが、しかし、そうした憶測による批判や非難が簡単に出回り、それを修正・撤回されることがほぼない状況自体がおそろしく感じられるのです。
 
 言い換えると、表現者と客の距離感がおかしくなっている、というか。
 距離感が詰まることで、何かいろいろ取りこぼしてしまっているように思うのです。
 それは、敬意とか、礼儀とか、あるいは歌詞の言い回しを借りれば「深い愛」とかいったものではないでしょうか。
 
 6年半ほど前に私は、こういう文章を書きました。
(↓これも「まとめられない」類のものだと思うので、この機会に併せてお読みいただけると幸いです)

 いまのSNS、とくにTwitterは「強い」言葉が目立ちやすいです。
 ファクトチェックも満足になされてない断定形の言葉が簡単に拡散されていくし、もしそこに何か誤りが含まれていたとしても、それが訂正されることはほぼ無いし、もし撤回等されたとしても元の誤情報を見た人たちの目にはそうそう触れない
(元々Twitterにはそういう傾向がありましたが、デフォルトで「おすすめ」のTLが表示されるようになったことで拍車がかかってる気がしています)
 
 特に今回は、「違和感」や「疑問」が、すぐ「不満」や「非難」にかわり……雪山を転がる玉のように、手をつけられないほどのスピードでネガティブな言葉がどんどん増幅していっているように感じました。
 
 ファンが意見や要望を言うのは別に自由です。
 中には批判が必要な場面ももちろんあるでしょう。
 ファンだからといって盲目的に何から何まで支持することもない。
 
 しかし、根拠のない憶測がエコーチェンバー的に発展してゆき、それを元に断定形の批判や非難が広まっていく、そういうことはどこかで止められないのか? と思います。
 後からの訂正や撤回が難しい以上、ことTwitterでの発信に関しては、憶測にせよ批判にせよ、その言葉がまわりに与える影響も含めきわめて慎重にあるべきだと思うのです。
 と同時に、誤った言葉(誤読を招いた/誤読に招かれたものを含む)は、それに気づいた段階で発信した人本人がはっきりと訂正や撤回をするべきだと考えています。
 
 ここであらためて冒頭の話、集英社オンラインの件に戻ります。
 記事が非公開になった際の「小沢健二さん本人の意向を汲んで」という説明に編集部やライターの方がどういった意図を込めたか判りませんが、結果として、記事が非公開になったことに対する不満や違和感の矛先はもっぱら小沢さんに向いてしまいました
 断定形の批判や非難を招いたその「誤った(誤読を招いた)言葉」については、今からでも訂正や撤回をされるべきではないでしょうか?

今回の講義のグッズ、ジャガード織りのバッグと懐中電灯。どちらも生活に使える素敵なアイテムです

*1:ここで「等」としているのは、集英社オンラインの記事が非公開になる前にも、別件でまた憶測が広がっていたからなのですが——これについて触れるとまた非常に長くなるのでここでは割愛します。ただ、ひと言でいうと、先に箇条書きした中の【4】(「まとめられない」)の話になるでしょう。タイミング的に一連の問題として捉えられるのもやむなしですが、【2】【3】の「手続き」の問題である(言い換えると、内容の良し悪し以前の話である)集英社オンラインの件とは、それぞれ別個の問題として捉えられるべきです