読み切りの新作を発表するだけでこんなに話題になる作家っているだろうか。
藤本タツキの新作『さよなら絵梨』。
本日公開と聞いていたので、今朝、早起きして読んだ。
既にめちゃくちゃ読まれているのでわざわざ言うことじゃないかもしれないけど、率直に言って、すごかった。
合う合わないのある作品だろうけど、それでも多くの人にオススメしたい。
『チェンソーマン』休止中はただの充電&描き溜め期間なのかと思いきや、『ルックバック』と本作とで、作家としての地力と世間的な注目度の両方を(元々凄かったのに)飛躍的に伸ばしてしまってる。
自身の才能に加えて、タイミング的なものとか、それに林士平の編集者力とかも相まってのものだろう。
――と、中身に全然触れずとも語れてしまうくらい、今の藤本タツキは凄い。
で、作品自体ももちろん凄かった。
他人の感想を読む前に自分が感じたところを忘れず書き留めておきたくてメモし始めたらけっこうなボリュームになってしまった。
第三者が読んで面白い内容かわからないけど、『さよなら絵梨』は個人的にはいろんな人の感想を読んでみたい作品なので、あえて公開してみる。
なんとなく、正直な感想をラフなまま外に出すほうがこの作品との相性もよさそうだし。
とはいえあくまで元は自分向けのメモなので、わかりにくい表現なんかも多々含まれているはず。そのあたりはご容赦ください。
というわけで以下、中身に触れてゆくのでネタバレ。
未読の人はいますぐ作品を読んでください。あ、作中に『シックス・センス』の大ネタバレが含まれているからそこだけは気をつけて!
(ここからネタバレ)
読んでまず思ったのは、(他人の感想を見る前に)自分なりに感じたものをちゃんと忘れずに残しておきたい、ということ。いろんな種類のテーマが含まれているけど、そういう話でもあると思う。作者と受け手の、作品を介した関係性。
なので、一読して感じたことを箇条書きでざっと挙げてみる。
- 手塚治虫『新宝島』的なコマ割り*1を、スマートフォンのカメラで捉えた構図で再定義する新鮮さ(近年でもそうした先例はあった気がするけど)。
- iPadを横向きにして読んだけど、縦画面で読むと見開きページのインパクトは違うかも。
- どんでん返しというか、読者をゆさぶるようなもの(「ファンタジーをひとつまみ」的な要素も含む)がうまく間を置いて大小バランス良く(?)配置されている。だから200ページでも全くダレない。ざっと挙げると――
- 最初の爆発⇒学校のスクリーンで作中作だと判明
- 絵梨との出会い(『ファイアパンチ』の映画マニアとの出会いを彷彿とさせるギアチェンジ)
- 絵梨の病(タイトルやそこまでの話の流れから想像がつくので意外性はないかも)
- 父親が撮っていた母親の姿(本作の白眉。絵梨が指摘した「母親が綺麗に撮られている」点や、爆発の意味などが全部ひっくり返る。しかも、ドキュメンタリーが現実を「編集」できることを肯定的に描きつつもその危うさみたいものまで内包してる。すごすぎ)
- 父親の演技(これより前の「ひとつまみ」然り、父親の発言がけっこう作品の芯を食ってるように思う)
- 2度目のスクリーン(これも別に意外性はない)
- 絵梨との再会(ここまでくると作中の虚実がゆわんゆわんになっており、作中作なのか優太の幻覚なのか現実なのかよくわからない)
- 最後の爆発(もうちょっと他にオチの付け方ないのかとも思うけど、たしかにこれ以外ないのかも)
- 上で挙げた揺さぶりの合間にも秀逸な描写は無数にある。2度3度……と読めばさらに見つかるだろう。
- クラスメイトからの酷評に端を発する批評論。死ぬほど思い詰めたところから肯定的な言葉ひとつでひっくり返る感覚はすごーーーくわかる。父親の「受け手の心を揺さぶるんだからお互い様」的な言葉がフレッシュかつ見事。作り手じゃないと言えない言葉。
- 2本目の映画の上映後に出てくる絵梨の友人の存在が興味深い。優太が映画を編集するなかでそぎ落とされた「現実」の大きさを感じさせる。
ざっとこんなところかな。
あと、絵梨の元ネタは『ぼくのエリ』、との指摘を見かけ、あーそっかなるほど観てないんだよなと頭を抱える。観なきゃ。
それから『チェンソーマン』の第2部ってほんとに描くのかいな、とあらためて調べたけど、昨年末から数回にわたって公式にアシスタント募集や第2部の告知をしているんですね。4月から作画開始で初夏に連載スタート、ってことは『さよなら絵梨』の執筆も含めて全部予定通りなのかな。『ルックバック』と『さよなら絵梨』を経てどんな表現が飛び出すのか、楽しみすぎてやばい。『チェンソーマン』目当てで毎週月曜の朝にジャンプを読んでいた日々は本当に幸せだった。
↑ここまでが初読した時点での感想というか気づいたこと。
↓再読したときに気づいた点。
- 再読でまず気づいたのは大ゴマの使い方。上で挙げたような「ゆさぶり」のシーンには基本的に全部大ゴマが入ってる。もしかしたら大ゴマ=撮影外の現実? とも思ったけど、そういう感じでもなさそう。単に、普通のマンガと同じように、重要な意味をもつシーンで大ゴマを使っているだけだと思う(意識しながら読むとちょっとわざとらしく感じてしまうくらいに)。
- 縦画面で読むと見開きはどうなっちゃうんだろうと思ったけど、見開きでもさすがに縦画面を意識した構図になっていた。というか見開きがあるのはそもそも学校のスクリーンの場面×2だけだったと思う。終盤の絵梨と会話するシーンも見開きっぽいけど、実際は1ページの大ゴマ×2。
- 絵梨の友人が「メガネ」「矯正器具」が映ってないことを指摘しているのがかなり重要。つまり、絵梨との出会い~絵梨=吸血鬼をテーマに映画を撮ると決めるまでのシーンも全部後から撮ったということ?
- 「絵梨/エリ」「優太/ユウタ」と名前呼びに漢字/カタカナの表記ゆれがあるのが気になる。たとえば漢字は作中作の演技、カタカナは現実のやり取り(あるいはその逆)、みたいな意味があったりして……と思ったけど、これは単なる校正ミスかなあ。たとえば海のシーンだと絵梨とエリが混在している。
- 母親の真意を踏まえて再読すると、最初の映画で猫など母親以外のものを撮っているシーンの重みが大きく変わってくる。母に叱責されてもなお諦めずにそういった描写を残したのだとわかるし、優太の作家性みたいなものも感じられる。
- 父親がキレ演技をしてカットを受けた後の会話、あれも2本目の映画の中に含まれていたんだろうか? それともあそこは作中作の外のやり取り? このシーンに限らず、作中作とそれ以外を明確に見分けるすべが無いので、このカット後の会話のあたりから虚実のラインが曖昧になってくる。それすらも意図的なものなんだろうけど。
- 先に書いたように、絵梨のメガネや矯正器具が出てこない以上、絵梨登場以降のシーンは特にどこからどこまでが真実なのか判然としない。いわゆる「信頼できない語り手」というか。そもそも絵梨の存在自体が(ながやま こはるちゃん的な)フィクションなんじゃないかという気さえする。
- なかでも、優太がふいに口にした「吸血鬼」という「ひとつまみ」が、そのまま絵梨の正体をドンピシャで当てているというのはちょっと違和感がある。だから、第三幕(といえばいいのかな、2本目の上映を終えた後の黒ベタの2~3ページを挟んだ後のパート)はまるっきり、大人になった優太による創作(交通事故は事実かもしれないけど)なのかもしれない。
- このあたりの答え、作者の中では決まってそうな気がするけど、明言はしないだろうし、解釈がいろいろあってこそ面白い気がする。
- 一通りの流れを知ったうえで読んでも、終盤、とくに最後のページばかりはどう捉えていいのかまだわからない。でも、2本目の映画の上映後に小さくピースした時点で娯楽作としては一度綺麗に着地しているのだから、そのあとはどう飛躍しても良いのかもしれない。
- 現実に、この作品に触発されて自分の日常を撮りまくる中高生が増えたら面白いなーと思う。それを編集して映画にまで仕上げてくれたらもう最高。
- 『ファイアパンチ』の映画マニアしかり、今作の絵梨しかり、主人公のことをプロデュースするキャラの存在が目立ちますね。マキマさんもそれに近いか。
こんなところかな。読めば読むほど、書けば書くほど、感想がどんどんあふれてくる。
正直、初読直後は(最後のコマがコマだけに)「……?」となったけど、そこに至るまでの200ページでめちゃくちゃ心を揺さぶられたし、それを振り返ったら特別な作品かもと感じ、再読しているうちにそれが確信に至った。
本当に、『チェンソーマン』第2部含め、藤本タツキの今後が超楽しみ。
第1部が終わった当時は「ここまで大々的に風呂敷を広げて畳んだ後に、続きの話なんてできるか? 別の新連載を始めたほうがいいのでは?」なんて思ってしまったけど、これなら絶対大丈夫。間違いなく第1部を超えてくる。
どうしても重い現実と向き合わざるを得ない日々が続くけど、ケタ外れに面白い作品はそんなときでも気持ちを上に向かせてくれる。
そうした作品に「面白い!」「最高!」といった賛辞の言葉を贈ることがせめてもの恩返しだろう。
*1:藤子不二雄等々の後進に衝撃を与えたオリジナル版(『まんが道』でもおなじみ)は3段組。後年に「手塚治虫漫画全集」で描き直されたバージョンは4段組